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【簡単解説】「大宋宮詞」にてヴィックチョウが演じる3代目皇帝の真宋(趙恒)ってどんな人?

こんにちは。
いよいよ中国時代劇「大宋宮詞」が始まりますね!
そこで、中国時代劇がとても苦手な私が勉強もかねてヴィックチョウ(周渝民)演じる「北宋」第3代皇帝 真宋(趙恒)について調べてみました。

出生

968年12月23日
德昌という名を付けられ太宗の三男として生まれた趙恒(真宗)。
母親は乾州防禦使の李英の娘である。
美女であり、多くの子供を産んだが、側室という事もあり低い身分に置かれていた。
叔父である初代皇帝、太祖は聡明な彼をとても気に入り、幼いながらも彼は遊ぶ時に『元帥』と名乗る事もあった。
8歳の頃
太祖が突然崩御し、太祖の弟でもあり父が第2皇帝の座に就く(太宗が太祖を暗殺したとの諸説あり)
その翌年には母親が亡くなる。

王位継承の経緯

趙恒には2人の兄がいた。
当初太宗は長男の趙元佐を後継者に選んでいたが、兄弟を暗殺しようとした事が見つかってしまい、精神錯乱状態の末に、985年に王位継承権をはく奪。
次に次男の趙元僖を後継者に選ぶものの992年に病死。
この経緯から995年、趙恒は皇太子に任命される。
997年に太宗が崩御すると趙恒は第3代皇帝に就く。

宋の第3皇帝として

父である太宗の方針を受け継ぎ、文治主義を推進した趙恒であったが、文治主義は、官僚から武人を除くという事であり、結果として軍事力の弱体化を招いてしまう。

999年
西夏と結んだ契丹による南征を受ける。当初は小規模な軍事行動であったが、1004年、契丹は親征(皇帝自ら出陣する事)を行い、20万もの大軍を南下。
これに宋朝は動揺し、多数の官僚は江南へ遷都する(国ごと移動する)事を提案していたが、寇準(大臣)は断固抗戦を提案し、抗戦の提案を採用した真宗は自身も親征を決意した。

両親征軍は澶州で膠着状態に。宋は契丹にのみ大軍を用いることの不利を理解し、寇準の反対を押し切り契丹に使者を派遣、和議が成立した(澶淵の盟)。
和議により以降、宋は契丹に対し毎年銀10万両、絹20万匹を贈り、宋と契丹は兄弟のような関係となった。
契丹に送った絹20万疋・銀10万両という財貨は宋にとっては大したものではないが、契丹にとっては莫大なもので、これを元に契丹は文化的繁栄を築いた。
金額を尋ねられた使者が指3本を出したのを見た真宗は「300万かと思ったが30万で済んで良かった」と述べたという話が残っている。

皇帝としての功績

真宗が皇帝に就くと太宗の方針を受け継ぎ科挙を拡大、毎年科挙が開催されるようになり、一度に数百人がこれを通過した。
太祖以来の政策の結果、皇帝独裁体制・文治主義(武人以外による統治)がほぼ完成したのである。
一方、内部では国初以来優位を保ってきた寇準(大臣)ら華北出身の北人士大夫に対し、華南出身の南人士大夫が徐々に勢力を伸ばしてきていた。

1008年
真宗は南人士大夫の嘘の言葉により、寇準(大臣)を左遷する。
その後、泰山にて天を祀る封禅の儀、汾陰に於いて地を祀る儀、(平和に感謝する儀式)が執り行われた。

1012年、福建路で栽培されていた占城稲を江南各地に広めたとされている。
占城稲の普及は江南以南の地域における風水害にも強く、短期間での栽培や、二毛作や二期作を可能とし、農業生産を大きく発展させた。
江南の高い農業生産の基礎を築いたという面で後世でも評価されている。

1022年
崩御
子の趙禎(仁宗)が即位する。

正室・側室

【正室】
章懐皇后(莒国夫人)潘氏
章穆皇后郭氏
章献明粛皇后劉氏

【側室】
章懿太后李氏
章恵太后楊氏

貴妃杜氏
貴妃沈氏(沈倫の孫娘)
賢妃曹氏(曹彬の娘)
賢妃陳氏
順容戴氏(戴興の娘)

美人徐氏、
才人陳氏

典正張氏
張氏
王氏

子ども

【男児】
長男-趙禔(夭折)
次男-趙祐 – 悼献太子。母は章穆皇后郭氏。9歳で亡くなる。
三男-趙祇(夭折)
四男-趙祉(夭折)
五男-趙祈(夭折)
六男-趙禎(後の仁宗)。母は章懿太后李氏

【女児】
恵国公主(後の静一帝姫
昇国大長公主(昭懐帝姫)趙志沖 — 若くして出家し、道士となる。母は貴妃杜氏。

まとめ

いかがでしたか?
いよいよ今日から配信スタートという事ですが、残念な事に日本語字幕はなし…(´;ω;`)ウゥゥ
でもこの知識を事前に頭に入れておけば、字幕がなくてもある程度理解はできるかな?と思います。
最後まで読んでいただきありがとうございました!

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